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書評「西洋音楽史」・「音楽の聴き方」(ともに岡田暁生著)・「音楽の基礎(芥川也寸志著)」

 音楽を聴いた後、私たちはよく感想を言います。それはテクニックがすごかったとか、音がインパクトを持っていたとか、様々だと思います。そういった私たち「アマチュア」の感想と、専門誌に載っている作曲家や指揮者や演奏家といった「プロ」の方の感想は、私たちのそれにはないものがある気がしてならず、それがなんなのかとても興味がありました。その考えを基に今回読破したのがこの三冊です。「音楽の批評」という観点からこの三冊を選んで読んでみました。

 

「音楽をどう評価するか」という問いについてまっこうから取り組んだのが「音楽の聴き方」です。ここでは西洋音楽史以外にも、ジャズなどにも触れて話しています。初めの章では「どんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう」と述べながらも、そこにとどまらない論評方法を模索していきます。

模索していってわかるのは、音楽のプロでもその評価軸は全然異なるということです。例えばロマン派のシューマンは、ショパンの曲の批評を書くときに「諸君、脱帽したまえ!天才だ!」という文に始まる批評を書いたことは有名です。その中で彼はショパンの曲の中から登場人物のキスなど、ロマンチックな情景を読み取ります。しかし皮肉にも、この批評はショパンからは胡散臭いと思われてしまうのです。ショパンは友人へあてた手紙の中でシューマンの批評を引用した後、「このドイツ人の想像には死ぬほど笑った」という辛辣な一言で結んでいます。このショパンシューマンの話は、音楽に対する対照的なスタンスを表しています。すなわち、「音の背後から情景を感じ取る」人たちと「音を音以外の何物でもない、サウンドとして鑑賞する」立場です。この二つについては正義も悪もありません。

筆者が批判するのはその後の流れ、つまり「音楽は言葉では語れない」という風潮の出現です。「音楽をただ聞いて消費するだけ、その音楽を実際に弾いたり、バックグラウンドについて聞いたりすることから私たちを遠ざけてしまった」原因であると指摘します。ベッセラーが指摘するように、音楽に「参加」することが少なくなってしまったのです。

ベッセラーの文脈では「参加=演奏、舞踏」のように書いてありますが、作者がここまで述べてきた「作品背景の調査」もこれに相当すると思います。コンサートに行く機会があるのなら、まず演奏される曲がどういった背景のもとで書かれたのか、それは何を演奏したものなのか、そして、それを演奏してみること(必要なのはチャレンジであって、作者が言っているように弾けるようにすることではありません)が肝要です。そうすることで「よかった・悪かった」という次元から一歩進んだ、深い評価が可能になるのです。

 

残りの二冊は、音楽についての最低限の下地を与えてくれます。西洋音楽史ではどの時代にどういった曲が生まれていったのか、そしてそれらはどのような傾向があるのかについて詳細に書かれています。「音楽の基礎」では作曲理論について述べてあります。ただしこれは実際にピアノをそばにおいて、試行錯誤をしながら読み進めるのがベストでしょう。その音を弾くとどうなるのかということは弾いてみないと分かりません。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

 

 

 

音楽の基礎 (岩波新書)

音楽の基礎 (岩波新書)

 

 

 

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

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