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書評「壁」(安部公房著)

 本書は六つの短編から成る短編集です。更に言うと、「壁」という小説はありません。短編集のタイトルが「壁」なのです。

芥川賞を受賞した作品は主張かなり複雑なものが多い、というのが自分の印象でしたが、この作品はいい意味でそれを裏切ってくれました。

 

つまり、最初から最後まで作者の描きたいことは「アイデンティティの喪失」ということなのです。それを形を変えて問い続けたのがこの六つの短編になります。

その中でも、最初の「S・カルマ氏の犯罪」のアプローチは面白いです。普通アイデンティティの消失というと、この短編の中では「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」のように自分の境界線が消えてしまって他者との見分けがつかなくなってしまう、という形式が多いです。しかしながら、「S・カルマ氏の犯罪」ではそこからさらにもうひと手間加えています。カルマ氏は「名前を無くす」ことでアイデンティティを失ってしまうのですが、そこからさらに周囲の環境もハチャメチャになってしまうのです。外と中の両面から、カルマ氏のアイデンティティを壊すアプローチが試みられています。これはラストの「バベルの塔の狸」にも共通しています。

しかしながら、カルマ氏は最終的に「荒野にぽつんと立つ壁」という形でアイデンティティを得るのに対し、「バベルの塔の狸」のアンテンさんは元の世界に戻るという形でアイデンティティを取り戻します。前者の書き方はどこか寂しく書かれているのに対し、後者ではラストの場面はホッとするような、あるべきところへ無事帰ってきたような書き方になっています。アイデンティティを喪失した結果新たなアイデンティティを得るのか、それとも取り戻すのかでの違いがここに表れています。

 

アイデンティティの喪失」という観点から書き上げられた六編はいずれも実験的小説というのがぴったり来ますし、時代の差を感じさせない読みやすい作品でした。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)